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    松谷 容作(追手門学院大学 社会学部教授)

2024.05.10セイアンアーツアテンション16「Error of Reality」展覧会レビュー
松谷 容作(追手門学院大学 社会学部教授)

Errorと戯れる   展覧会「Error of Reality」について

 

 

はじめに

本展のタイトル「Error of Reality」は多くの者を刺激し、さまざまな解釈を促すであろう。ただし、本展が現実や事実、真実に、また想像や虚構、偽にかかわるものであることは、皆がそろって首肯するはずだ。

周知の通り、現実と想像、事実と虚構、真と偽については古代から数多くのやり方で検討が重ねられてきた。例えば、アリストテレスは真と偽について以下のように述べている。

 

「存在するものを存在しないと言い、あるいは存在しないものを存在すると言うのは偽であり、存在するものを存在すると言い、あるいは存在しないものを存在しないと言うのは真である」(アリストテレス 1959:148)

 

アリストテレスはここで言明の真偽が、その言明と現実との一致と不一致を通じて判断されることについて言及している。真理に対するこうした長い歴史をもつ議論は「ポストトゥルース」の時代である今日においてさらなる重要性を帯びているであろう。筆者もまたアリストテレスによるこの言及に深く興味を抱く。だがその理由は真理の議論にあるのではなく、その言及において言明と、あるいはこう言ってよいのであれば表現されたものと、現実の一致のみならず不一致に対してもリアリティ(実在感)が認められている点である。別様に言えば、表現を通じて、真と同様に、偽というリアリティに権利が与えられているのである。そうしたとき本展のタイトルは二重の意味を同時に示すことになろう。つまりは真や現実、事実のリアリティのエラー(生きる世界を構成する諸々の要素の組み合わせが別様な組み合わせになること)と偽や想像、虚構のリアリティ(前者のエラーの反復と強度の高まりによって生きる世界に取って代わって生み出された世界の実在感)のエラー(その世界の構成要素の組み合わせが変容すること)である。このテキストでは、これらふたつのエラーの観点から「Error of Reality」で発表された作品について、また展覧会全体について述べていく。

 

  1. 物質化というエラー

 本展は成安造形大学が展開する総合芸術祭「セイアンアーツアテンション」の17回目にあたるものであり、大学のキャンパス内に所在する複数のギャラリーが舞台となる(成安造形大学 2023a)。そのうちのひとつ「バスストップギャラリー」は正門から入ってすぐの場所にあり、この展覧会のポータルとなっている。

 そこに展示されているのは『虚構新聞』である。事実を伝えないウェブ新聞である『虚構新聞』は、パロディ的な立場から現実と虚構の境目を追求する記事を発信している。本展ではこの新聞の社主であるUKと、成安造形大学2023年度「情報デザイン演習3α/β」受講学生が、いくつもの『虚構新聞』号外を発行し、ギャラリーのみならずキャンパスの至るところに紙面を掲示している。大小の見出しと大きな画像、そしてテキストを備えた各号外の内容は「AIイラスト実は人力」「接触必須のウィルス感染拡大」「空気椅子、発売決定」「じょうようかんじぜんさくじょ」など実に色取り取りである。ただし、読者を現実と虚構のゆらぎのなかに誘い込んでいくことはいずれの記事も共通している。記事のイメージと言葉は確かに偽の世界を編み出す。だがそれらは、現実世界における諸々の要素を素材としその世界と何らかの強度で繋がりつつも、それら要素を別の形で組み合わせ直すゆえに、偽ではなく現実世界におけるリアリティのエラーを発生させるのである。もちろん読者はそうした繋がりや組み合わせ直しといった「編集」を十分に理解した上で、記事を、エラーを楽しむ。だからこそ「編集」の調整が難しい。しかし的確な調整は私たちに別の世界の見方を可能とする。

 しかしながら、さらなる展開がある。号外「リアルきのこの山発見」の側の庭には「きのこの山」が生えていて、「空気椅子、発売決定」の記事から視線を下げると人体に基づきデザインされた空気椅子が極上の座り心地を鑑賞者に提供する。あるいは輝くレターパック(号外「光るレターパック『ライト』始まる」)が、長方形の千円札を模したパン(号外「千円パン登場」)が鑑賞者の心を打つ。そもそも、事実を伝えないウェブ新聞『虚構新聞』が紙として物質化しているのである。現実世界におけるリアリティのエラーがさらにエラーを引き起こす。そのとき偽の世界の強いリアリティが現実世界に浸透していく。もはや何が現実で何が想像なのか、事実と虚構、真と偽の区分がよく分からなくなってしまう。号外とともに会場のいくつもの柱に「とみさわ昭仁 特別講義」のチラシが掲示されていたが、その講義は本当に11月16日19:00に始まるのであろうか。それも『虚構新聞』の記事だろうか。不安であると同時に笑いが込み上げてくる。世界が『虚構新聞』化する。

 こうして鑑賞者は「Error of Reality」展の世界へと引きずり込まれていくのである。

 

 バスストップギャラリー|虚構新聞社社主UK×本学在学生

 

本館棟通路、中庭|虚構新聞社社主UK×本学在学生

 

  1. 日常に折り込まれたエラー

 自らが生活する世界(現実)と別の世界(想像)とのあいだで揺蕩する様を、小説や説話など言語を用いた表現において私たちは目撃することができる。そうした表現のなかで人びとを魅了するもののひとつとしてあるのは道先案内人の存在であろう。ウサギはアリスを、カメは浦島を異世界へと誘う。現実世界におけるリアリティを忘却するほどの折り重なったエラーのなかにふたりは包まれ、偽のリアリティーの住民となるのである。スパイラルギャラリーとギャラリーキューブで展示された、谷平博が作り出す(扮する)キャラクターとは、まさにこうした道先案内人である。頭部や手、あるいは上半身が葉や布で覆われ、杖をもつこのキャラクターは、イラク戦争を始めた当時のアメリカ大統領ジョージ・ブッシュと、叩く人を意味する言葉を合わせて「ブッシュワッカー」と呼ばれる。一見すると怪物のようでもあるが、神道において神と人間の境界にあるとされる榊の葉を纏うブッシュワッカーは、折口信夫が論じる「まれびと」が他界から何らかのタイミングで現世に来訪するように、私たちの日常生活に現れる。そのとき日常にエラーが生じるのである。

 ただし展示された絵画作品のイメージは、山林や海岸、港を来訪したブッシュワッカーの穏やかな記念写真のように見える。もっとも、ハッとするような姿であるこのキャラクターが、人間のようにポージングをしている様はまさに日常的身振りのエラーであろう。くわえて、谷平はこのキャラクターに扮して撮影をしていたときに警察から職務質問を受けたという。このような数々のエラーをブッシュワッカーを中心に据えた一連の絵画作品は鑑賞者に感じさせる。ここではなかでも知覚上のエラーに注目したい。

 作品解説にもあるように谷平の作品は「カメラで写真を撮影し、現像された像を紙に投影して鉛筆で写しとった絵画作品」である(成安造形大学 2023b)。とはいえ、たんに像をトレースしただけの絵画ではない。画面は鉛筆を用いたきわめて細密な描写で埋めつくされている。そしてそのことが画面上に奇妙なイメージを生み出すことになる。例えば《日本海沿岸に佇む人の形をした疑問符2》(2020)では、港のような場所にいるブッシュワッカーが画面中央左に配置され、その身体の傾きに平行するかたちで岸壁の輪郭線が画面手前から奥に向かって伸びている。この線にそって、ロープで係留されたいくつもの船が現れているのだが、これらは段階的に形態がぼやけたり、色の濃淡が変化するように思いきや、画面では一様に緻密なやり方で描かれている。すべてが細部にわたって明確に見えているのである。周知の通り、私たちの知覚は生活の必要におうじて世界のほんの一部を受け取り、それ以外の多くについては通り過ぎるようにしている。それゆえに、日常的な知覚とは一部に焦点があたり、それ以外は霞んでいるようなものとなろう。だが、谷平の絵画作品にはそうした日常的な知覚にエラーを引き起こすようなすべての知覚がある。それはあまりにも過剰であり、鑑賞者になにか吐き気のような身体的な不具合(エラー)をももたらすであろう。

 そうした知覚を生み出すのはブッシュワッカーが異世界からの来訪者であるからであろう。安定した日常を異化するのである。さらに興味深いのは《わからないことを問い続ける放浪者》(2021年)などにあるように、同様の強度で詳細に対象を描くことでブッシュワッカーの頭部と背景の木々が同化していくことである。そのことは異化やエラーをもたらす存在が私たちの生きる環境に組み込まれていることを示唆する。日常とはエラーが潜勢的なものとして折り込まれたものであり、ブッシュワッカーという形象でいつでも現勢化するのであろう。

 

ギャラリーキューブ |谷平 博

 

ギャラリーキューブ |谷平 博《船小屋、佇む男、意味不明1》2019|532×664 板に紙、鉛筆、グラファイト

 

  1. 反復される記憶のエラー

 エラーを折り込んだ世界は、人類史の非常に古くから地域や文化の違いに関係なく、とりわけ様々な説話などを通じて人びとに共有されてきた。言い換えれば、それは表現されたものとして、あるいは偽の世界として継承されてきたのである。ライトギャラリーで展示された垣本泰美のシリーズ《Weaving Memory》はこのような継承にかかわってくる。この一連の作品は「スイスのヴァレー州に位置する町、クラン=モンタナ周辺の山岳部に伝わる古い口承伝承をテーマ」(成安造形大学2023b)にして、その場所で滞在制作されたものである。作品解説(成安造形大学 2023b)によれば、ヴァレー州は20世紀になるまでスイスのなかでも隔離された非常に厳しい自然環境をもつ場所であると同時に、多くの民話や伝説を残す場所であった。この地域の人びとは自然の過酷さやそれに対する恐怖などを人智を超えたものの物語として伝えてきたのである。くわえてそうした物語は、人やモノの流れと絡み合いを生み出してきたこの地域に流れるローヌ川を通じて広く伝播された。そのためスイス各地でよく似た民話や伝説が残されているのである。とはいえ、伝承されるごとに物語は少しずつかたちを変えていく。

 また、クラン=モンタナの地域の人びとは季節におうじて山を移動して生活する。夏は山の住居へ移動し、さらに山の上にある牧草地へ向かい放牧やチーズ作りをして、秋はぶどうの収穫とともに、人も牛も山の麓に移ってくる。そして雪に閉ざされた長い冬の夜には家のなかで伝承された民話や伝説が語られることになる。そこでもまた、伝承におうじて物語が微細に変化していくのである。

 シリーズのタイトル「Weaving Memory」はまさにこうした横への拡張と縦への伸張を通じて織り上がる伝承を、あるいは社会や集団の記憶を示すであろう。もちろん、現実世界(自然環境や人びとの感情)を素材とした物語は伝えられる際に発生するエラーの反復により変化するので、この記憶は固定したものではなく可変的なものとなろう。そのとき偽のリアリティが立ち上がっている。くわえて民話や伝説と現実世界との参照関係もそのリアリティに関与してくる。垣本は民話や伝説の場所を訪れてみたものの、そのほとんどはなんの印もなく、場所を特定することもできなかったという。個別具体的な現実世界との繋がりを断ち切られ、偽のリアリティの強度を高めた、変容し続ける記憶が浮かび上がるのである。そして垣本の作品は、これらすべての風景写真として理解できよう。

 会場は屋内を模した空間とその外で区分されており、屋内では季節の変化にあわせた人びとの暮らしと物語ることを強く喚起させるイメージが展示され、また外では山岳地域での人びとの営みと環境の強烈な変化のイメージが現れる。鳥瞰的に撮影された雪のイメージや、緑と白、黒のコントラストと道や雪の帯による動的な線が印象深い放牧のイメージ、また紙面にゆらめく光が重ねられる書籍のイメージなど、いずれの写真も強く美的な感覚を喚起させる。そして興味深いことに、暮らしや営みを喚起させるようなモノやコトはあるものの、いずれの写真にも人間が不在なのである。馬や数々の植物など、他の生命体は存在している。

 こうした写真イメージを鑑みると、先に述べた記憶とはノンヒューマンな記憶なのかもしれないし、また季節の変化という惑星的な記憶あるいは法則とも言えよう。私たちはこうした記憶や法則に調子をあわせることでしか生きていくことはできない。そのあわせ方やその共有はいつも一様にはいかない。常に変化が要請される。それゆえに、クラン=モンタナ周辺の地域の伝承は少しずつかたちを変えていくことになろう。もちろん、ノンヒューマン、惑星的な記憶や法則が大きく変容(エラー)することもある。まさにいま私たちはそのなかにいるであろう。

 

ライトギャラリー|垣本 泰美《 Weaving a Memory # 16》2014|840×1000、Chromogenic print、mounted on poly PET、wood frame

 

  1. 法則のエラー

 私たちは自分たちを取り巻く環境や自身の身体などには何らかの法則があり、公転周期や四季の移ろい、身体の代謝のサイクルなどのように、その法則にしたがってそれらが変化していると信じている。そして法則に基づく安定した変化こそが、堅牢性をもった世界や私たちを作り上げるというのである。ゆえに、安定性を乱す変化が法則に起きた場合、私たちは戸惑い、不安を覚え、思考停止の状態にまでさえ至る。ギャラリーアートサイトの平瀬ミキの作品ではこうした法則が問われているように思える。

 今回展示された平瀬の作品のひとつ《Translucent Objects》は「メディアを通してモノを見ることを再考させるための、映像表現を用いたメディア空間における彫刻作品である」(成安造形大学 2023b)。この作品では黄色や緑色、赤色のブロックが何者かの手によって積み上げられていく様子を前方と後方から同時に撮影をし、さらに「映像の不透明度を調整し重ね合わせて合成する手法」(成安造形大学 2023b)が用いられている。こうしたことによりスクリーン上の映像において、前後左右の対照関係で同時に少なくともふたつのブロックが動かされていく。このような状態になるのはブロックだけではない。それを動かす手も、手のひらと手の甲が同時に映像として示され、両者は対照的な方向に進んでいく。ブロックが床面を滑る際に立ち上がる音はひとつであるにもかかわらず、その移動の姿はふたつ存在する。そのとき作品の鑑賞者は、通常の認識では一度に捉えることができない、モノやコトの複数の側面を同時に目撃することが可能となる。さらに興味深いことは、対照的に配置されているブロックが、ときに半透明であったり、そうでなかったりと、一定の法則でその度合いが調整され重ね合わされていることである。そのなかで、いくつかのブロックは透明となり、その奥に配置されていたブロックを透かし見せる。結果として、通常の物質の存在の法則から逸脱したイメージが現れるのである。

 以上のことから、この作品において少なくともふたつの現実のリアリティのエラーが認められるであろう。一方で日常的な認識法則のエラーであり、他方で物質の存在法則のエラーである。こうしたエラーは映像空間で経験可能なものであり、言うなれば偽のあるいは表現された世界のリアリティである。そして鑑賞者は、その種のリアリティを通じて、モノやコトの見方の広がりや見方それ自体を反省することができよう。

 とはいえ、スクリーン上のあるブロックが傾き他のブロックによりかかり力を保っている様子から、映像は力の法則あるいは重力からは解放されているわけではない、と私たちは主張することはできよう。また、会場に入ってすぐの場所に展示されている《Translucent Objects》の初期撮影実験セットに触れて、自らブロックを積み上げ組み合わせつつ、撮影された映像を確認しながら、同時にこの作品の構造を解体しようと試みることもできよう(頭から煙が出てきそうなほど困難な試みであるが)。そうした主張や試みは、表現されたリアリティを拒絶し現実のリアリティを支える法則へと回帰することから、あるいは法則そのものを不安定にされることに対する戸惑いや不安、思考停止から引き起こされることであろう。

 だが、身体や環境、世界について人類が知りうる諸法則は絶対的なものでも、完全なものでもない。そもそも私たちは身体や環境、世界のほんの一部しか知らないし、知っていることも曖昧なことが多い。とすれば、これまでの法則や枠組みに回帰するのみならず、平瀬の作品が与えるようなモノやコトの見方の更新を促すイメージそのものと向き合うことも重要である。偽のあるいは表現されたリアリティを、さらにはそのリアリティのエラーも受け入れて、思考を重ねることはきわめてエキサイティングな試みではなかろうか。

 

ギャラリーアートサイト|平瀬 ミキ《Translucent Ocjects #8》2023|8min30sec、映像

 

ギャラリーアートサイト|平瀬 ミキ《Translucent Ocjects》|初期撮影実験セット

 

  1. エラーのエラー

 5つの会場とその順路において鑑賞者は様々なエラーと遭遇することができるであろう。では、6つ目の会場となるギャラリーウインドウで展示された今村遼佑の作品において、どのようなエラーを経験できるのであろうか。この会場で今村は6つの作品を展示している。とくにここでは《降り落ちるもの》に焦点を合わせたい。

 この作品では、おそらく元は展示会場のどこかにあったのであろう木材やノート、ガムテープ、絵具皿、コップ、時計、石、葉などが会場の床面に置かれている。それぞれの物体の上には、下から順に凸レンズそして小さな鏡が吊り下げられている。いずれの鏡も会場の名前にもなっている大きな窓の方向をむいていて、窓の外の光景をその下の凸レンズへ反射する。そしてレンズはその光をカラー映像として各物体に映し出すのである。そのとき、窓の外の広がる変化する世界と会場の物体とが鏡とレンズを媒介して接続される。別様に言えば、窓の外の世界のリアリティと物体のリアリティが映像として立ち上がるのである。物体をスクリーンにした映像はその意味で複数のリアリティを帯びたものとなるであろう。もちろん、その映像は静止したものではない。窓の外の世界の変化あるいは鏡の周辺の変化、言うなれば光の変化におうじて、映し出された映像も刻々と変化する。よって、鑑賞者が鏡に近づけば、鑑賞者の身体もその映像の一部としてスクリーンに投影されることになる。そしてガムテープ+窓の外の世界+鑑賞者、ノート+窓の外の世界+鑑賞者A+鑑賞者Bなど、これまで思いもよらない存在の組み合わせが可能となる。そのとき、物体は、世界は、身体は、各々の社会的身分や価値、記憶やリアリティを部分的に保持しながらも剥奪され、スクリーンとして、映像として新たな存在のあり方をもって作品の一部となる。その意味で、この作品は現実世界における存在のエラーを引き起こすものと言えよう。そのエラーが床面上のあちこちで発生し、会場は表現されたリアリティの世界となる。しかし、である。

 筆者がこの作品を経験しているとき、時計の上の鏡だけ窓とは異なる方向を、具体的には時計の方向をむいていたのである。そのため時計には窓の外の世界が映し込まれておらず、それ自体の一部分が映像としてあった。そのとき時計は、その他の物体と異なり、作品化される以前の身分や価値、記憶、リアリティで動く物体となっていた。つまりは時計としての機能を果たし、時を刻んでいたのである。偽のあるいは表現された世界のリアリティにエラーが発生したのである。たとえそのエラーが現実世界のリアリティを基盤としたものであっても、想像や虚構、偽の世界にとってはその世界を変容するものとして際立つ出来事となる。それはエラーのみならず、エラーを生み出す世界やその世界を構成する諸々の要素、さらには法則などを捉え直し、更新する契機となろう。

 

 ギャラリーウインドウ|今村 遼佑《降り落ちるもの》2023|窓、凸レンズ、鏡、針金、ノート、コップ、枝、木材、石、紙、絵具皿、その他

 

おわりに

 本展を通じて、鑑賞者はリアリティをめぐる多様なエラーのあり方を経験し、それらと戯れることができよう。いずれの場合においてもエラーとはなにかネガティヴな失敗や誤りではなく、世界を、日常を、記憶を、法則を、存在を新たなかたちで経験するための、重要な道具立てとなっている。むろん、環境破壊や戦争、差別問題などを引き起こし、増長させていくエラーはきわめて危険であり、確固たる態度で拒絶し変容を試みなければならない。だが、ときとしてアートもそうしたエラーに加担する危険性ももつであろう。その危険性への意識なく、エラーの思考と戯れることはできまい。そうしたエラーへの眼差しを含め、「Error of Reality」展はエラーについて、エラーと私たちについて、エラーと世界について多角的に思考できる機会を与える秀抜な展覧会である。

 

 

【引用・参考文献】

アリストテレス 1959:『形而上学(上)』、出隆訳、岩波文庫

成安造形大学 2023b:『成安造形大学開学30周年記念展覧会2023秋の芸術月間セイアンアーツアテンション16 Error of Reality』(展覧会配布資料)

原田(裕規)2023:『とるにたらない美術――ラッセン、心霊写真、レンダリング・ポルノ』、ケンエレブックス

マッキンタイヤ(リー) 2020:『ポストトゥールース』、大橋完太郎監訳、居村匠、大﨑智史、西橋卓也訳、人文書院

 

【参考web】

成安造形大学 2023a:「SEIAN ARTS ATTENTION 16 Error of Reality」(2023年12月4日最終確認https://artcenter.seian.ac.jp/exhibition/6241/

(2024.1.9)

 
会場撮影|守屋 友樹
 
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