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    「Chronoscape|蓄積された時間、継続する行為」展覧会レビュー
    大槻晃実(芦屋市立美術博物館学芸員)

2026.06.24セイアンアーツアテンション18
「Chronoscape|蓄積された時間、継続する行為」展覧会レビュー
大槻晃実(芦屋市立美術博物館学芸員)

風景としての時間 ―― 時間はいかに経験されるのか

 

 

 

 

はじめに

 

 2025年10月、成安造形大学の「キャンパスが美術館」で開催された「Chronoscape|蓄積された時間、継続する行為」は、「風景のように時間を眺める」という言葉を手がかりに構成された展覧会である。この言い回しは直感的でありながら、容易には輪郭を結ばない。「時間を眺める」とはどのような経験なのか。ましてそれを「風景のように」思い描くとき、私たちは何を見ることができるのだろうか。あるいは、時間を経験として捉えるとき、そこには何が見えてくるのだろうか。

 

風景とは、複数の要素が同時に立ち現れ、視線が定まることなく部分と全体とのあいだを往還するような場であろう。その捉えがたさを前提とするならば、通常は過去から現在、そして未来へと、不可逆的な流れとして理解される時間を、あえて「風景」として眺める試みは、その自明な枠組みに揺らぎを与え、別の位相から見直す視線の導入でもあるだろう。

 

本展は、そうした時間の認識のズレを、「行為の蓄積」という制作のあり方を通して提示していた。繰り返される手の動きや痕跡の集積は、時間を単なる経過ではなく、層として、あるいは広がりをもつものとして姿を現す。そのとき私たちは、時間を「見る」ことができるのだろうか。本稿では、出品作品を手がかりにこの問いを辿りながら、本展において現れていた時間のありようを見つめていきたい。

 

 

時間の層と行為の痕跡 ―― 金沢寿美

 

 「時間が風景として現れる」とはどのようなことか。その一端を示していたのが、金沢寿美のインスタレーションである。会場では、新聞紙を継ぎ合わせた巨大なドレープ状の構造体が天井から吊り下げられ、空間を象っていた。新聞紙に印刷された無数の出来事は、記録された瞬間に過去へと押し流されるものでありながら、その集積は圧倒的な量として立ち上がり、時間の層を可視化していた。

その紙面に目を向けると、金沢が選び取った言葉や図像が残り、その周辺は鉛筆で丹念に塗りつぶされている。文字の周囲をわずかに残しながら塗り進められたその紙面には、無数に連なる微細な余白が、まるで光り輝く星々のように散りばめられている。そこには、原生林のなかで見るような、美しい夜空が広がっていた。

 

一方、会場に設えられたテーブルには、電気スタンドとガラス瓶に差された鉛筆が置かれていた。夜ごと制作に向き合う金沢の姿があらわれ、外界の喧騒から切り離されたような密やかな時間を想起させる。そこでは、社会の出来事の集積と、ひとりの行為の反復という時間が同時に見えてきた。更新され続ける情報のなかで、言葉を塗り消すという行為は、外部の時間から距離を取り戻し、個人の時間を回復する試みでもあるのだろう。そこには、自らの感覚を取り戻すような、ひとつの「救い」ともいえる契機が潜んでいた。

 

このように、金沢の作品において時間は、異なる速度と質をもつ層として形を成していた。それは、外部から与えられる時間をなぞるのではなく、行為の蓄積を通して引き受け直されたものとしてである。そのとき私たちは、時間を複数の位相が重なり合うひとつの「風景」として見出すことができるのだ。

 

 

ライトギャラリー|金沢寿美《新聞紙のドローイング》2025|新聞紙、鉛筆、椅子、テーブルランプ|サイズ可変

 

 

更新される時間の構造 ―― 今井祝雄

 

 行為の蓄積が時間を風景として立ち上げるとき、それはどのような単位と構造をもって姿を現すのだろうか。この問いに対して、今井祝雄は、記録や反復にとどまらず、作品そのものを更新し続ける行為を通して応答している。

 

会場で展開された《ビデオテープ・ガーデン 2025》では、多数のビデオカセットから引き出された磁気テープが床面に広がり、草叢のように空間を満たしていた。かつて映像を記録していた媒体は、再生装置としての機能から解放され、その物質性をあらわにする。さらに壁面に映し出されたスノーノイズは、すでに失われつつある視覚経験を呼び戻し、過去に記録された無数の時間、機能を喪失した現在のテープ、そして忘却されていく知覚の層を、ひとつの場に併置していた。ここで重要な要素のひとつに、本作が固定された形態をもたない点がある。《ビデオテープ・ガーデン》は展示のたびに再構成され、場所や条件に応じて更新を続け、継続する行為そのものとして存在していることである。

一方、《タイムコレクション》(1981)では、テレビ映像を1分間露光撮影することでイメージが重なり合うなか、時刻表示だけが明瞭に残り、流れ去る映像のほとんどが認識されないまま消えていく事実をあらわにする。また、《デイリーポートレイト》(1979-)では、前日の写真を手に持ちながら自撮りを繰り返すことで、過去と現在が入れ子状に重なり、作家自身が時間の尺度として組み込まれていた。

このように、今井にとっての時間とは、記録され、解体され、再編成される対象であり、流れの中において回収されるものではなく、行為の反復と更新のなかで、つねに組み替えられる構造そのものなのであろう。

 

金沢寿美が、社会と個人の時間を交錯する層として時間を可視化していたとすれば、今井は、時間を記録し再生する仕組みそのものに働きかけ、その構造を露出させていた。両者は方法を異にしながら、「行為の蓄積」という観点において交わり、「時間の風景」を異なるスケールから支えていた。

 

ギャラリーアートサイト|今井祝雄《ビデオテープ・ガーデン》2025|ビデオテープ、アクリル板、プロジェクター|サイズ可変

 

ギャラリーウインドウ|今井祝雄《デイリーポートレイト》1979-|インスタント写真、アクリルボックス|サイズ可変

 

 

同一でありえないことの条件 ―― 菊池 和晃 

 

 菊池は、自作の装置を用い、一定の回転運動を長時間にわたって繰り返すことで、美術史上の作品のイメージを再生産する。そこには、機械のもつ効率性や合理性は反転され、反復そのものが目的化された行為そのものが作品として提示されていた。

 

会場には、黒いフレームが組み上げられた回転装置と、その稼働を記録した映像、装置から生成されたイメージが壁面に並置されていた。鑑賞者はまず、装置の構造に目を向け、その運動を想像し、あるいは映像を通してその状況を追い、やがて壁面に展示された成果物へと視線を移すだろう。こうした視線の動きのなかで、行為と記録、そして結果とのあいだに生じるわずかなズレが知覚されていく。

壁面に並ぶ円環状のイメージは、具体美術協会のリーダー・吉原治良の円のシリーズを起点に生成されたものでありながら、その成り立ちは大きく異なる。吉原の作品が、主体的な判断のもと丁寧な筆の運びの積み重ねによってかたちづくられているのに対し、菊池の円は、回転運動の持続によって生成され、その過程に作家の個別の判断や修正は介在しない。

この点において重要なのは、菊池の試みがオリジナルへと近づくための営みではないということである。むしろそれは、オリジナルと再生産のあいだ、あるいは巨匠と自身のあいだに横たわる、埋めがたい隔たり——すなわち「ギャップ」そのものに意識が向けられている。

 

たとえば繰り返される回転は、均質な時間の持続のようでありながら、生成される像は決して均一にはならない。同一の像を生産しようとしても、色彩の濃淡といったわずかな違いがそのつど現れ、イメージはずれ続ける。そうした状況から浮かび上がるのは、時間が差異を孕みながら重なり続け、像の内部に刻まれているということであろう。私たちはそれを、視線を向けるなかで知覚することになる。

 

さらに、壁面に並ぶ円環状のイメージそのものの位置づけもまた重要である。長時間の運動の結果として生成されたそれらは「作品」として提示されながらも、同時に成果物としての性格を強く帯びている。その二重性は、制作と生産、行為と結果のあいだに横たわるズレを、別のかたちで反復するものであろう。その不確かさこそが、菊池のいう「ギャップ」をさらに拡張していたように感じた。

 

ライトギャラリー|菊池 和晃《Draw a Circle III -machine》2020|アルミニウム、鉄、ステンレス、ハケ|1600×1000×400mm

 

スパイラルギャラリー|菊池 和晃《Draw a Dotの制作映像》2021|60min

 

 

 

見ることとしての時間 ―― 麥生田 兵吾

 

 菊池が反復によって生じる構造を明らかにしていたとすれば、麥生田兵吾の関心は、それを受け取る主体の側へと向けられている。すなわち、見るという行為そのものがいかなる時間を伴うのか、という問いであった。

 

〈Artificial S〉は、人工知能によって人間そのものを再現しようとする欲望が可視化されはじめた2000年代初頭に生まれたシリーズである。麥生田の関心は、AIによる実現可能性にではなく、むしろそれが孕む不可能性に向けられる。人間の思考や感性は、果たして外化しうるのか。その問いに対する応答として、麥生田は「足りなさ」そのものを、写真をとおして向き合ってきたといえるだろう。

 

本作で、作家は初めて単一のモチーフ——石——に焦点を当てていた。沖縄の墓を介して見出された「石」は、自然の生成物であると同時に、無機物でありながら、そこに自己の内面を照射する対象物として存在する。外界を記録するという写真の役割を反転させ、「何を見るのか」を選び取る行為そのものへと意識を向けさせる。その選択のなかにこそ、言い尽くすことのできない人間の「心」が宿っているのではないだろうか。

 

麥生田の写真は、レンズによる単一の視点に依拠しながらも、画面の内部においてはむしろ多視的にひらかれている。時間的な連続性は切断され、像はあたかも辞書のように、どこからでも参照されうる断片として提示されていた。そこでは、時間の流れを追うのではなく、複数の地点を飛び移るようにして観賞へと導かれる。見るという行為は固定されることなく、つねに更新されていくことをあらわしているように思う。

 

ここに現れるのは、その都度ひとつの見え方が暫定的に立ち上がる時間のかたちである。だとすれば、見るという行為は受容という態度ではなく、ズレを自らに引き受けながら世界との関係を結び直し続ける営みといえるだろう。

 

 

ライトギャラリー|麥生田 兵吾《Artificial S "stones"》2025|インクジェットプリント|サイズ可変

 

 

 

身体として経験される時間 ―― 山本 雄教

 

 山本雄教は、一円玉や米粒、ブルーシートといった日常に遍在する素材を起点に、それらが別の位相へと跳躍する可能性を探り続けている。近年は一円玉を用いた制作を継続しており、本展においても、その最小単位の通貨を反復・集積することで生起するイメージを提示していた。

 

ガラスに囲まれた会場の床面には、無数の一円玉が敷き詰められていた。外光を受けた硬貨の表面には、経年による摩耗や汚れが浮かび上がり、波のようなゆらぎを生み出す。本来は均質な価値単位として流通する硬貨だが、ここでは面として展開されることでその均質性を自ら揺るがし、差異を顕在化させることで、潜在する時間の堆積を浮かび上がらせていた。

 

鑑賞者は一円玉の床面を踏みしめながら、奥に配置された小さな絵画《Night parking》(2006)へと導かれる。本作は山本が大学一年の時に同じ場所で発表した作品であるという。約20年の時を経て再び同じ場所で設置されたことで、個人の記憶が場所に蓄積された時間と交差していた。

 

また、別会場で展示されていた一円玉を用いたフロッタージュの作品では、食品や群像といったモチーフが、社会的な出来事や個人的な経験と結びつきながら、硬貨の刻印によって形成されたドットの集合として現れていた。さらに、空間の中央にひっそりと置かれていた一円玉は、大学が開学した1993年に製造されたものである。場と物質がそれぞれに刻んできた時間、それぞれに蓄積された記憶や経験が重なり合うことで、単なる物質を超えた厚みが立ち現れていたように感じられた。

 

このような山本の試みによって、価値、時間、場所、身体といった複数の水準のあいだに生じる差異が、物質の反復と集積のなかで姿を現していた。空間を歩み、光を受けて変化する出来事を見つめていくなかで、鑑賞者自身の経験として蓄積されていくだろう。そのとき私たちの視線は、空間のなかを移動しながら、部分と全体のあいだを往還する。この経験は、広がりのなかで立ち現れる風景の知覚にほかならないだろう。山本はここで、時間を「風景のように眺める」ための感覚を、私たちの側へ開いていたように思う。

 

ギャラリーキューブ|山本雄教《One》2023|MDFパネル、一円硬貨|サイズ可変

 

ギャラリーキューブ|山本雄教《One coin people》2018|木製パネル、麻紐、鉛筆、1円硬貨のフロッタージュ|1820×3680mm

 

 

 

むすび

 

 本展が示していたのは、時間をひとつづきの流れとして捉えるのではなく、そのズレや重なりを経験する場であった。とりわけ印象に残るのは、行為と痕跡、過去と現在、個人と環境といった複数のあいだを、視線が絶えず行き来していたことである。その動きのなかで、時間は目に見えない存在のままではなく、知覚や身体のはたらきとともに、確かなかたちを帯びていた。

「風景のように時間を眺める」という言葉は、そうした経験を言い表していたように思う。風景が、立つ場所や目の向け方によって見え方を変えるように、ここでの時間もまた、行為の重なりのなかで、広がりをもって立ち現れていた。

時間は明確な輪郭を持たないけれど、見ることを重ねるうちに確かにそこにあるものとして、少しずつ感じ取られていくものなのだろう。

 

私たちはいま、時間のなかにどのように身を置いているのだろうか。

本展は、その問いをあらためて考えさせてくれる場であった。

 

 

 

 

 

執筆|大槻 晃実 OTSUKI Akimi

芦屋市立美術博物館学芸員。専門は近現代美術。企画した主な展覧会に「今井祝雄―長い未来をひきつれて」(2024年)、「art resonance vol. 01 時代の解凍」(2023年)、「限らない世界/村上三郎」(2021年)、「植松奎二 みえないものへ、触れる方法―直観」(2021年)、「芦屋の時間 大コレクション展」(2020年)、「美術と音楽の9日間 rooms」(2020年)、「art trip vol.03 in number, new world / 四海の数」(2019年)、「小杉武久 音楽のピクニック」(2017年)などがある。今年4月より武蔵野美術大学が運営するgallery αMのゲストキュレーターとして、αMプロジェクト2025–2026「立ち止まり振り返る、そして前を向く」を企画している。

 

撮影|守屋 友樹 MORIYA Yuki    /    合同会社ウミアック Umiak(イベント)

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