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    はが みちこ(アート・メディエーター)

2023.01.26セイアンアーツアテンション15「みちとゆくえ|うつろいのしかた」展覧会レビュー
はが みちこ(アート・メディエーター)

あいだをつなぐはフリーハンド

 

 

 

 「みち」をテーマに掲げた本展の背景には、コロナ禍によってもたらされた「つながり」の変容がある。隔離と行動制限が要請され、コミュニケーションを断絶せざるをえない状況のなか、遠隔のままでつながりを継続する各種の方法(オンラインのミーティングやイベント、テレワークなど)の技術開発が進められたが、ある程度それらも社会の中に定着しつつある。従来の(封建的な文脈でしばしば強調される)「つながり」ではない、昨今の「つながり」の地殻変動をふまえた「みち」のあり方が検討されているのではないか。そもそも「みち」(道・路・途・径…)とは、なにかとなにかのあいだをつなぐスペースのことだ。はたして、その「みち」にはどのような「交通」があるのだろう?

 美学者・篠原資明が提唱する「あいだ哲学」は、アンリ・ベルクソン、和辻哲郎や空海など古今東西の思想を基礎として篠原が独自に築いた交通(コミュニケーション)論である。「あいだ哲学」では、交通様態が四つの型(単交通・双交通・反交通・異交通)に分類されるが、最も重視されているのは「異交通」なる様態だ。「たがいに異質性を保持しつつ、さらなる異質性を生成させる様態」と篠原が定義する「異交通」は、その典例に、芸術作品のもたらすコミュニケーションが挙げられている。

 この四類型を、仮にふたりの人物が(物理的に/心理的に)つながる方法としてみると「単交通=どちらかが一方的に会いにいく」、「双交通=双方が会いに行きあう」、「反交通=会わない」、「異交通=別々の場所にいるまま会う(それぞれにフィードバックを得る)」といった状況になるだろう。そのように見れば、バラバラのままで集合する遠隔のつながりとは、実に異交通的な可能性を秘めていることがわかる。個別性を保ちながら同質化を免れ、既存の秩序立てに回収されることのないような、新たなつながり方は開かれていくだろうか。シュルレアリストたちの命題「手術台の上のミシンとこうもり傘の不意の出会い」(ロートレアモン)を引き合いに出すまでもなく、文脈を違える異質なもの同士が出会うことで引き起こされるデペイズマン(異化)という効果は、既存のシステムを揺るがそうとする芸術史上の関心事になってきた。

 

 本展もまた、そうしたつながり革命の流れを密やかに汲んでいる。演出家である和田ながらによる「わたしたちのフリーハンドなアトラス」は、「正しい」とされる既存の地図が、無意識のうちに私たちの身体を合理的に規定(振り付け)していることに疑問を呈すリサーチプロジェクトだ。自らの身体感覚で、いわば“フリーハンド”な手つきで事物をつなぎ、それをなんらかの形で他者に伝えるような地図を制作しようというものである。公募で集まったメンバーとの地図をめぐる四回のワークショップを経て、各々の方法で成安造形大学の新しいキャンパスマップを作り、大学の入口にあるバスストップギャラリーやギャラリーウインドウにて展示(あるいは配布)している。

 たとえば、和田のテキスト作品《十日前の地図》は、十日前に和田が立っていたキャンパス内のある地点までの道のりを記憶をもとに記した道案内で、彼女が目にしたであろう光景(大きなケヤキの木や自走式芝刈り機、金網のほつれなど)を追いながら歩くことで、目的の地点にたどり着けるかもしれない、というものだ。案内文が書かれるまでに十日という時間の隔たりがあり、また、鑑賞者がそれを読むのはさらに後の時点になるため、その間に風景が変わる可能性も考慮すれば、まったく同じ出来事の追体験になるかどうかは不確かだ。起点となる和田の体験と、道案内される鑑賞者の体験は分離したまま重なることになる。

 参加メンバーたちの作品はというと、有村聡美の《感覚の地図》では、学内の階段や廊下、工房などを写した写真がつなぎ合わされ、ふせんや糸などを用いて、現役学生として日々キャンパスを利用する有村の感覚が表されている。大学という場所は複雑に連結した通路が多く、目的の教室にたどり着くのが困難な場合が多々ある。俯瞰図のマップはあまり役に立たず、利用者は学内の構造を徐々に身体化して覚えていくことになるが、そうした過程が垣間見える地図である。山田真実の《成安レストラン》は、キャンパス内で発見したものを山田がゴム判子に彫り、それを食材に見立てて、テイクアウト弁当の容器がプリントされた台紙に好きなだけ押して持ち帰るというユーモラスなもの。学内のパブリック・アートから石ころまで多岐にわたる判子を、用意された枠組み内で自由に組み合わせられる参加型の地図である。これらは、散らばった事物や風景を任意のネットワークとしてつなぎ合わせ、見取り図を作る行為といえるだろう。

 こうしたネットワーク型の地図もあれば、それぞれ自己流のスケールを用いて測量した地図もある。測量とは、地図制作や建築設計などを目的として、ある場所の面積や寸法などを規格の単位で測る行為を指すのが一般的だが、和田のワークショップでは「測量をあそぶ」として、測るための尺度自体を自己開発するところから始めたという。林葵衣の《裸足の地図》は、自ら裸足で歩いた軌跡をフロッタージュで写しとり、足裏にあたる感触(ひやり、ザラザラなど)についてのコメントを添えた現象学的方法によるものだ。一方、武雄文子がスケールに用いたのは蜘蛛の巣である。《蜘蛛の住所録》では、建物ごとに各フロアで見つけた蜘蛛の巣の数を集計し、蜘蛛の環世界から見たキャンパスの地図を提示している。

 

 ウインドウギャラリー|有村 聡美《感覚の地図》2022|コピー紙、ふせん、マスキングテープ、ピン、糸

 

バスストップギャラリー|山田 真実《成安レストラン》2022|ゴム判子、木、成安造形大学での採集物

 

 新しいキャンパスマップを作るこのプロジェクトを起点に展覧会を見渡せば、他の出展作品もまた、個々の作家が自らの尺度によって手探りで編んだ、フリーハンドなアトラスのように思えてくる。やはり、そこにもネットワーク型と自由測量型の二通りの傾向が見出せはしないだろうか。

 路傍祠の地蔵など土着の信仰についてのリサーチを2014年から継続するタイルとホコラとツーリズムは、これまでの9回に渡るプロジェクトのドキュメント(写真やオブジェ、印刷物など)で会場を"マンマン"と埋めつくし、それらを振り返りながら"ダラダラ"語る映像を今回の出展に合わせて制作した。映像はなんと約2時間半もあり、靴を脱いでターポリンのシートに地蔵盆のように座って見物するよう促される。一見、本来のリサーチ対象である祠とは関係ないような事物も入り込んでおり、そうしたバラバラのドキュメントを、ネットワーク的資料群として曼荼羅のように付置するのは、これまでの彼らの経験であり終わらない語りそのもののなせるところだろう。

 

ギャラリーアートサイト |タイルとホコラとツーリズムseason10《マンマンダラダラマンダーラ》2022

 

 牛島光太郎の手法である「意図的な偶然」シリーズもまた、拾得物などのファウンド・オブジェと布に刺繍されたテキストが組み合わせられているが、その関係性の中では、なにげないオブジェ(壊れた扇風機や靴紐など)が、誰か(作者?)の人生の一部として、かけがえのない大事なものに見えてくる。そうした可能性は、"意図的な"組み合わせの操作によって付与されるわけだが、この操作による拡張性と代替性をギリギリまでテストしてみようとするのが「偶然的な出会い」シリーズだろう。似たような構図や組み合わせのイメージ、同一モチーフのヴァリエーションなど、雑誌やマンガ、日用品の中からあらゆる表象を抜き出して「仲間分け」し、それらと絶妙な関係性を築けるような一文が添えられている。だが、それらの事物と言葉の不意の出会いに共感するためには、見る側にもまた各々の想像力による意図的な主観操作が欠かせない。(レモンのモチーフと「今日から一人で家に帰る練習をする」というテキストの間に、どんな"エモさ"を読み取ればよいか?)

 

ギャラリーウインドウ|牛島光太郎《みちのもの》2022|路上や駅などでの拾得物

牛島光太郎《意図的な偶然》2022|文字を布に刺繍

 

ギャラリーキューブ|牛島光太郎《偶然的な出会い》2022|中古の日用品、壁面に文字

 

 会場全体に散りばめられた諸物が群的な作品として立ち上がるのは、ひとえに事物をつなぎ合わせてネットワーク化する作家の操作に因るものだ。アーティストは、レディメイドを“選ぶ”主体のみならず、“つなぐ”主体にまで拡張したのかもしれない。こうした作品では、かけ離れた複数の事物を組み合わせて見取り図を作る手つきこそに創造性を見るべきだろう。対して、従来的に自らの手で物を作るという場合でも、一つの軸のもとで継続的に反復される制作とは、世界についての一種の自由測量ではないかという気がするのだ。測られているのは、なにかとなにかのあいだの距離や関係性そのものである。

 彫刻家の傍ら、さまざまな民具の調査と製作を手がける大村大悟の活動は、道具を作ることを通じてまさに物事の本質を測っているようなところがある。とりわけ《一合の椀》だが、ちょうど米一合となるように内側をくり抜いた木製の器で、画一化された既製品の計量カップとは違って一点毎に形が異なっており、使う人の手に沿うものを選ぶことができる。用途を満たしさえすれば、測る行為ですら自由な形を選んでよいとストレートに教えてくれるものといえよう。機能と形態、そしてそれを使う身体との間柄の中で道具について観察する目線は、彫刻作品の制作にもフィードバックされている。「sculpture/relief」シリーズは、木やブロンズによるレリーフ状の壁掛けの彫刻だが、壁に置かれることでその空間や光、鑑賞者との関係性がアレンジされる作品だ。取り巻く環境との関わりの中で道具/彫刻をとらえることで、それらは世界のありようを逆照射する計測器にもなるだろう。

 

ライトギャラリー|大村 大悟《一合の碗》2022|木、漆

 

スパイラルギャラリー|大村 大悟《sculpture/relief》2022|木、漆

 

 下道基行が続けてきたフィールドワークとその記録写真もまた、彼独自の世界の測り方だと見ることができるかもしれない。出展された「torii」は、数ある彼の仕事の中でも代表作といえるもので、日本の旧植民地である東アジアの各地に残された神社の鳥居の現在の様子を取材して写真に収めたシリーズだ。現地の人々の生活に溶け込んだり、植物に覆われて朽ちかけていたり、倒されてベンチに活用されていたりと、実際に赴かなければ決して知ることのできない植民地主義の遺構の、大きくも小さな歴史が一枚一枚に写されている。調査の対象となる事物の姿を通して、世界の複雑性をそのままに取り出して、私たちに投げかけているようなところがある。

 

 ライトギャラリー|(右から)下道 基行《Hualien,Taiwan 花蓮 台湾》2006-|タイプCプリント

下道 基行《Taichung,Tiwan 台中 台湾》2006-|タイプCプリント

下道 基行《Saipan,USA サイパン アメリカ》2006-|タイプCプリント

 

 なるほど、「みち」をテーマにした本展の作品はどれも地図と見れば合点がいく。物事のあいだに身を置き、異質な物同士をつなげ、さまざまな方法でそれらを測ってみせる。本展で述べられたように、「みち」は「言葉や文化、感性や価値観が混交する、流動的なプラットフォーム」であり、一様ではない「つながり」の生起を支える領野なのである。ここには篠原が提言するような「異交通」の契機も潜んでいるだろう。

 社会の混乱を経て既存の地図や測量具が問い直される状況で、目下の課題は、断片化して散らばる無数の物事のあいだにどのように道筋をつけてつないでいくか、である。元通りのコミュニケーションに戻すことがよいのか、あるいは断絶を逆にチャンスととらえるべきか…。こんな時、白地図にフリーハンドで挑むアーティストたちの存在は心強い。もしも迷子になりそうであれば、彼らの地図を道標にしてみるのも手かもしれない。

 

はが みちこ(アート・メディエーター)

(2022.12.13)

 
会場撮影|守屋 友樹
 
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