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    保坂 健二朗(滋賀県立美術館ディレクター[館長])

2022.01.06セイアンアーツアテンション13「fringe and fringe 縁と前髪」
展覧会レビュー
保坂 健二朗(滋賀県立美術館ディレクター[館長])

生活の中にある絵画ならではの絵画展

 

【キャンパスが美術館】ギャラリーアートサイト|会場風景

 

 

 実験的な絵画の展覧会は今なお可能だ。

 

 成安造形大学【キャンパスが美術館】で開催された「fringe and fringe 縁と前髪」展を見ての率直な感想である。こう述べる時、私が思い返している過去の展覧会はたとえば次のようなものである。なお、1976年生まれの私が実際に見られたもののうち、国内の展覧会に限っている。

 記憶の最初にあるのは、1995年だ。阪神淡路大震災が起こり、Windows95が発売され、東京都現代美術館が開館したこの年、関東では「絵画」をテーマとした展覧会が3つも開かれている。水戸芸術館現代美術センターの「水戸アニュアル'95『絵画考──器と物差し』」(キュレーターは森司)、セゾン美術館の「視ることのアレゴリー 1995:絵画・彫刻の現在」(実質的なキュレーターは同館学芸員であった是枝開と杉山悦子だったと言ってよいだろう)、東京国立近代美術館の「現代美術への視点 絵画、唯一なるもの」(キュレーターは中林和雄)である。

 

 1995年から続く数年間に「絵画の今」を見せようとした展覧会はあったのかもしれないが、なぜか記憶に残っていない(企画者の方、すみません)。記憶に残る次の展覧会は、2006年の国立国際美術館の「エッセンシャル・ペインティング」展(キュレーターは中西博之)である。これが強烈なインパクトを残しているのは、「エッセンシャル」という言葉を冠した絵画の展覧会、それも国立の美術館で開催された展覧会に、国内の作家がひとりも入っていなかったからである。そのことについてなにも言及はなかったから、担当者からしてみれば、エッセンシャルな作家・作品を集めた結果が自然そうなったということなのかもしれないが、実際にはこの展覧会を補完するかのように、2010年に同館で、国内の作家のみによって構成される「絵画の庭‒‒ゼロ年代日本の地平から」(キュレーターは島敦彦)が開催された。

 

 この2006年と2010年の大阪での展覧会が刺激になって、ということでもないだろうが、その後、東京でも絵画をテーマにした展覧会が続いた。2012年にgallery αM(東京)での「絵画、それを愛と呼ぶことにしよう」(キュレーターは保坂健二朗)、2014年に東京オペラシティ アートギャラリーでの「絵画の在りか」(キュレーターは堀元彰)といったようにである。αMでは2018年にも「絵と、 」(キュレーターは蔵屋美香)が開催されている。

 

 こうしたいわゆる「絵画」「ペインティング」「絵」をタイトルに冠したものとは別に、日本画をテーマにした展覧会も各館で開催されてきたが、本稿でその詳細を追うことはしない。ジャンルをめぐる展覧会としては、むしろ2008年に東京都写真美術館他で開催された「液晶絵画 STILL/MOTION」(キュレーターあるいは発案者は建畠晢)や2015年に東京都美術館を会場に開催された「第4回 都美セレクション グループ展 東北画は可能か?―地方之国構想博物館―」(キュレーションあるいは代表者は石原葉、久松知子)のように、新しいジャンルの可能性を問いかけるタイプのもののほうが(特に「絵画」を考える上では)生産的だと思うからだ。もし日本画を考えることの目的が、日本の(芸術の)近代化を再考することにあるならば、梅津庸一の一連の活動(彼自身の作品や著作や企画だけでなく、私塾であるパープルームを運営するような実践も含めたそれ)を考えるほうが、制度化や概念化の功罪についてよりヴィヴィッドな見解を得られるような気がしている。

 

 さて、以上のような絵画展を振り返ってみて気づくことがある。

 ひとつは、キュレーターの大半をなぜか男性が占めていることだ。例外とも言える2018年にαMで開催された展覧会で、蔵屋が、「絵画」という固い響きを持つ言葉ではなく「絵」というやわらかな母音の響きを持つ言葉(あるいは「音」)を採用していたのは、「絵画」の展覧会を男性ばかりが企画担当しているという歴史的事実に対する批判でもあると言ってよいだろう。その英語タイトルを蔵屋は「Painting and …」としているわけで、間違いなく彼女は、「painting」と呼ばれる存在に対して「絵画」という言葉を選択するや否や、そこに一種のマチスモ、あるいは権力的存在への憧れが潜む畏れがあることに気づいている。私自身も、自らが企画した展覧会に「絵画」という言葉をつけてしまっているわけだが……

 もうひとつは、ほとんどがいわゆるショーケース的な展示となっていることだ。もちろんここでいうショーケースとは、デパートの店先にあるそれではなくて、演劇(祭)の世界で行われているそれを意味している(実際にはそこで上演の契約が成立したりすることを考えると、演劇のショーケースにもデパートの店頭と同じような機能があるとは言えるのだが、ここではこれ以上の深追いはしない)。つまり、作家ひとりひとりをブースで紹介し、全体として多様な表現が存在することを確認する場となっていて、テーマやコンセプトを立てることはしていない。

 

 これらふたつの、(母数が少なすぎるのでおおざっぱに過ぎるかもしれないけれども)日本の「絵画展」の特徴を本展に照らし合わせた時、なにが見えてくるのか。

 まずはキュレーターの偏りについて。本展の事実上のキュレーターと目される企画者としてクレジットされているのは馬場晋作、つまり男性である。また出品作家3名もすべて男性である(小柳裕と中川トラヲと馬場)。これは同じセイアンアーツアテンション(SEIAN ARTS ATTETION)の枠組みで2021年10月から開催された「Re:Home」展の出品作家が、AKI INOMATA、岩名泰岳、ふなだかよ、松井沙都子、成安造形大学・成安造形短期大学コスチュームデザインコースOB・OGとなっていること、つまりINOMATA、ふなだ、松井と女性が過半を占めていることと比べてみるときわめて対照的である(ついでに言っておけば、各大学は、OB、OGなどという言い方は早くやめて、国際的に通用するalumniあるいはalumni and alumnaeを使うべきだと思う)。ただ、ここまで極端な偏りがあるのだとすると、そこには意図があると考えたほうがよいだろう。

 その意図とは、もちろん、「男性による絵画を見せる」というものではない。そうではなく、それはもうひとつの特徴に絡む。つまり、本展は単なるショーケース展示ではなく、そこにはコンセプトがあるということだ。あるいは、この3人「組」でなければならない理由があるということだ。

 コンセプトについては、企画者が明らかにすべきものであるゆえ、以下では、3人「組」でなければならないと思えた理由を述べることにしよう。

 

【キャンパスが美術館】ギャラリーウインドウ|馬場 晋作|《棚とフレーム|隙間と転換》
|木、紙、フィルム、インクジェットプリント、東京国立近代美術館所蔵作品リストの一部|サイズ可変|2021

 

 馬場の作品は、「額縁」という、絵画の形式に深く関わるものであった。加えて、美術館による収蔵という、絵画あるいは芸術をめぐる「制度」について言及しようとしてもいた。

 

【キャンパスが美術館】ギャラリーアートサイト|中川 トラヲ|《The heat death of the universe》
|ジェッソ、顔料、メディウム、パネル|63.5×39.5cm|2021|他

 

 中川の作品は、「支持体」と「表面」の一体化を目指すものとも言える。また、「筆触」と「色彩」とを一体化させるものとも言える(一体化を目指すことで、翻っては、個々の存在の意味がより際立つことになるのであるが)。と同時に、現実世界を参照するような意味が剥奪されていることもあって、彼の作品は、つねに、「装飾」という問題圏を検証することも射程に入れている。

 

【キャンパスが美術館】ギャラリーアートサイト エントランス|小柳 裕|《Eustoma》
|油彩、ドンゴロス、板|30×26cm(6枚組)|2021

 

 小柳の作品は、闇夜の街中を描くことを通じて、「光」の問題を、つまり「見える」ことに実直に取り組もうとするものである。また、枯れていく花を、個別のキャンバスで描いたように、「時間」という、空間芸術である絵画とは無縁なようでいて、その実、深く関わっている概念を、取り込もうとするものである。

 「収蔵」「額縁」「支持体と表面」「筆触と色彩」「装飾」「光」「時間」。こう書き上げてみるとわかるように、3人の異なる作品があることで、本展は、絵画の問題をより深く、より広く問うことができるようになっているわけだ。

 もちろん、ひとつの/ひとりの作品において、これらの問題すべてを問うこともできるかもしれない。だが、ひとつの作品においてより多くの問題を問うていることが、それすなわちよりよい作品になるというわけでもない。いや、そもそも「(より)よい作品」とはなんだろうか。とりわけ絵画において……。

 

 ここで唐突ではあるが、アートフェアの話をしたい。その場を訪れるとわかるのは、絵画は今なお、マーケットという舞台ではその中心で活躍していことだ。近年ではNFTなるものが話題だが、その多くが絵画の形式に紐付けられていることを私たちは知ってもいる。この状況は、ビエンナーレやトリエンナーレなどの国際美術展では、輸送やハンドリングに手間がかかり、時には保険料も結構かかる絵画が、実に不遇な扱いを受けているのとは対照的な現象だ。

 国際展では非主流派(fringe)になっている絵画が、マーケットの世界では、主流になっているのはなぜか。それは、絵画が、基本的には壁という室内空間の縁(fringe)にあることを常とするからだ(「基本的に」と留保を付したのは、屏風の存在が頭をよぎったからである)。絵画は壁に掛けられることで、彫刻よりも場所をとらない(と感じられる)。しかもそれは、壁に正対すれば鑑賞の対象になるけれども、ひとたび壁に背を向けてしまえば、意識の縁からするりとすべり落ちていく。絵画が背後にあろうとも、それは映像のように、光をちらつかせたり音を出したりすることもないから、人はおしゃべりに興じたり、じっくりと読書をしたりすることができる。どんなに自己主張する絵画でも、それが壁というfringeにある以上、人はそれを簡単に意識の外に追いやることができる。絵画は、人の生活の一部となることができる。絵画は、私たちが思っている以上に、生活の一部になっている。

 この特徴は、ある「影響」を絵画に対して与えずにはおかない。絵画は、生活に入り込みやすい以上、人の好み/趣味(taste)と密接に結びつきやすい存在になりえるのだ(あるいはもうなっているのだ)。もっと言えば、見る人の趣味/好み以外を捨て去っていたとしても、絵画は、少なくともそれを好む人にとっては、むしろよりよい作品となる。絵画には問題を限定することが許されている、そう言い直してもよい。

 このアドヴァンテージは、作品のサイズが小さい際にとりわけ顕著となる(もちろん、岡﨑乾二郎のサムホール作品のように、作品のサイズが小さくとも多くの問題を扱うことはできるのではあるが)。そして「fringe and fringe」展に出品されていた絵画作品は、まさにそうした小品サイズであった。生活とつながりやすいサイズの絵画作品の特性について、思いをいたらすことのできるサイズであった。

 その大きさが要請されたのは、冒頭にあげた絵画の展覧会とは異なり、今回の展覧会が、大きな空間を持つ美術館ではなくて、大学内にある小規模のスペースで行われたからとも思える。だが、小柳、中川、馬場のいずれも、絵画(あるいは平面作品)をつくる時には、今回の出品作品くらいのサイズが、いわばスタンダードとなっていることを見逃してはならないだろう。誤解を恐れずにいえば、彼らの関心は、ミュージアムピースという言葉においてしばしば暗示されるところのサイズ感による絵画、ではなくて、生活とともにある絵画において、問題を限定することが許されている絵画というフィールドにおいて、どの問題をどれほど深く展開できるかということにある。そして本展は、3人の、異なる問題を探求している作家を集めることで(そしてそこに馬場が様々な形で関与することによって)、作品を/問題を相対化しやすい環境を整えていた。そうすることで、「絵画」なるものへの思索を誘う空間をつくりあげていた。冒頭で私が、「実験的な絵画の展覧会は今なお可能だ」と述べた所以である。

 

 もっとも、事実上の絵画の展覧会であるならば、展覧会タイトルにおいてもそのことがもう少しわかりやすく明言されてもよいだろうと思ったのは事実である。だが、集客をそれほど難しく考えなくてもよいのかもしれない大学での展覧会であれば、内容と同じくらい野心的なタイトルをつけることのほうが実践の意義があるのかもしれない(実際本稿はfringeというタイトルに刺激を受けて、拙いながらも論を展開している)。理解するのに時間がかかるタイトルをつけることも厭わず、展覧会が総体としてより強度を持った意義を持つことを目指す。それこそが都心部にある美術館ではなく、決して便利な場所にあるとは言えない大学のスペースで開催される、fringeとしての展覧会が具えるべき姿勢であり、この「fringe and fringe 縁と前髪」展は見事にそれを完遂していた。

 

保坂健二朗(滋賀県立美術館ディレクター[館長])

(2022.1.6)

 
会場撮影|守屋 友樹
 
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