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    沢山 遼(美術批評)

2021.09.02セイアンアーツアテンション13「fringe and fringe 縁と前髪」
展覧会レビュー
沢山 遼(美術批評)

絵画の干渉地帯

 

 

1.

 事物は連鎖することによって生き延びる。果実のように、事物の内には、その連鎖を可能にする種子が存在し、それが過去を現在へと更新する。たとえば、目の前にあるテーブルや椅子は、人類の歴史においてたったいま発現したわけではもちろんなく、人類が更新してきた生活世界の連鎖と継承の結果として存在する。

 哲学者のハンナ・アレントは、事物が理念を継承しながら複数の製作者の手を越え連鎖する様に、生命の有限性を超えて永続する人工的な世界を見出し、それを「労働」や「活動」といった領域と区別し「仕事」と呼んだ。逆に言えば、事物が保証するこの永続性によって、人間は、生の有限性を超えるものを事物の内に刻みこむことができるのである。アレントは、使われることによって摩耗し壊れていく道具と、そもそも使用することを前提としていない(ゆえに、自然過程の腐食効果から切り離されている)芸術作品とを厳密に区別しているが、一方で芸術を道具と同じ工作物として「仕事」の領域に位置付けている。芸術もまた、生の有限性に抵抗し永続性を生み出すものであることによって、アレントが言うところの「仕事」に位置付けられることになるのだ。ゆえにアレントは、「芸術作品は生きているものが使用するものではない」自然の新陳代謝に抵抗する芸術が「不死的なるもの」であると書いたのだった。

 アレントが、芸術を「仕事」に位置付けたことは興味深い。なぜなら、自らの形式を絶え間なく複製し、再生産することによって「仕事」の不死性が確保されるのであれば、同型の事物が絶えず反復再生産される工芸や道具の世界と芸術の世界は、ある意味で連続することになるからだ。そして、この図式に従うならば、絵画や彫刻などの物体的な芸術や道具の本性は、それ自体が起源となりうるような、オリジナルなもの、固有なものを生み出すことではなく、過去の事物を反復し、再生産するという機械的な生産原理と矛盾なく一致することになる。

 アレンとはそこまで踏み込んでいないが、彼女の言説を踏まえて言えば、このような認識は、一枚の絵画はその他から切り離された特権的かつ有限な唯一的で取り替えの効かない個物であるという認識と対立するものであり、一枚の絵という固有の輪郭、枠の解消をもたらすものになるだろう。アレントの「仕事」の概念は、芸術をその持続性、永続性によって位置付けるものであると同時に、人間がつくりだした人工的な「もの」と自然を区別するそのことによって、たとえばアイロン台と絵画、プロペラと彫刻との境界を不分明にする。ゆえにそれは、マルセル・デュシャンのレディメイドの概念とも接近するとすら言えるかもしれない。

 ならば、こう言うこともできるだろう。デュシャンがレディメイドを自らの発明として誇る以前から、芸術家たちはレディメイドの原理、あるいは生産と再生産のサイクルからなるメカニカルな反復性を行使してきたのだと。なぜならアレントが「仕事」と呼ぶ事物の再生産、連鎖は、多くの芸術家たちの仕事を支える原理だったからである。たとえば、ルーカス・クラーナハは、ユディトとサロメという異なる女性像を、ほぼ同一の形象を使い回すことによって描き分けている。クラーナハは、ユディトを描く際には、そのアトリビュートである剣をもたせ、サロメを描く際には、サロメのアトリビュートとなる皿をもたせた。しかし、両者の図像には、共通してほとんど同じ衣装をまとった女と男の生首の図像が反復される。イメージは、このように、一つの絵画を飛び越え連鎖している。クラーナハにおいてそれは、同じ図像がサロメにもユディトにもなりうるという図像の複製原理、あるいは経済を示していた。

 初期北方ルネサンスに精通していた岸田劉生は、クラーナハのこの図像学的経済を当然知っていた(意識していた)だろう。劉生が描く麗子像の執拗な反復は、それゆえにクラーナハの手法を参照したものだと考えることができるはずだ。実際、クラーナハの生首を想起させるように、手当たり次第に友人たちの肖像を描く劉生の肖像画制作は、友人たちのあいだで「首狩り」と呼ばれていた。そのとき劉生は、クラーナハの手法を、一種の図像的な「コラージュ」として理解したのである。劉生の画面のなかで、麗子は、レディメイドな図像=素材として何度でも画面のなかに転写され、張り付いた微笑を浮かべている。劉生において、麗子像の反復は、映画『リング』の貞子さながらの、複製を通した執拗な回帰現象を伴っていた。劉生が「デロリの美」と呼んだ麗子像の不気味さは、何度でも回帰する画像が、絶えず彼の絵画面に侵食してくる、その怨念にも似た執拗さによってもたらされるものなのかもしれない。

 これと同型の現象は、時の経過によって刻々と変化するルーアンの大聖堂を繰り返し描いたモネと、それと同じ図像を印刷物の網点によって反復するロイ・リクテンスタインの関係にも見出すことができるだろう。リクテンスタインは、モネの絵の終わりのない連作、その機械的な反復に対し、レディメイドな図像を反復する、文字通りの機械的な描写=転写によって応答したのである。

 こうした事例において、一つの絵画面は、たえず複数の絵画面によって浸食され、また複数の絵画は、その連鎖によって大きな一つの流れを生み出している。そこで、一つと複数は、たえず流動的に浸透しあう関係にある。ゆえにそこには、画面の枠、つまりフレームや縁(フリンジ)を超える運動性が認められる。そこで画家は、一つの画面を飛び越え、別の画面に移動する絵画の内的衝動に突き動かされるように絵を描く。

 

 2.

 言い換えれば画家は、自らの絵画を構成する諸要素を分析的に解体し、そこに存在する潜在的な可能性を見極め、それを次なる制作へと漸進的に推移させる。画面から画面へと飛躍を伴いながら複数の画面を跳躍する運動、そしてそこから発生する時間の発生にこそ、画家の力能が託されることになるのだ。

 本展もまた、画面の限定的な枠、縁(フリンジ)を超えていく、絵画の力動性に貫かれていると言ってよい。たとえば、花の枯れていく過程を複数枚のキャンバスで追跡するように描く小柳裕の連作において、花という生命の内部を持続する時間は複数枚の絵画を貫いている。また、京都市内の夜間の踏切を、写真的な映像性を思わせるリアリズムの手法で描く仕事には、光と闇の閾に、踏切という都市論的な閾が重ね合わされている。踏切という閾は、ある空間と空間を遮断しながら、同時に通路として機能する。つまり、小柳の絵画に見られる光と闇のグラデーションは、踏切というものがもつある場からある場への移行という機能性と分かちがたく結びつき、一つの画面のなかに持続的な空間と時間の流れを内在させることになるのだ。

 

ギャラリーアートサイト エントランス|小柳 裕《Eustoma》
油彩、ドンゴロス、板|30×26cm(6枚組)|2021

 

 馬場晋作の小柳作品への介入はこのことに関係している。馬場は、小柳の絵画を二十四時間、五分毎のタイマーで撮影し、その写真を縦に細断し、それを一日の時間の連続性に従ってつなぎあわせ、一枚の画面を構成した。それは、小柳の作品に通底する遮断と連続からなる閾の力学、そして、空間と時間の持続に直接応答するものである。その映像にはしたがって、一つの絵画に流れ込む、複数の時間が切り刻まれ、そして封じ込まれている。

 

ギャラリーアートサイト|会場風景

 

 

 絵画の構成要素を分解し、絵が絵として成立する最小限の要素だけで絵画面を組成するという考えのもとに組み立てられた中川トラヲの作品は、支持体となるジェッソ、顔料、透明のアクリルメディウムだけで構成される。そこで失われるのは、キャンバス、およびフレームという要素である。キャンバスとフレームという住居あるいは地盤を失い、虚空に浮かぶ雲のような「かたち」そのものとなった絵画に認められるのは、絵画それ自体のホームレスな浮遊性、遊動性である。それを示すように、中川の絵画は、ときに展示室内の壁面からも離れ、空間のなかをあてどなく漂うようにインスタレーションされている。絵画を最小限の構成単位に解体するという彼の試みが結果的にもたらすのは、絵画それ自体のエフェメラルな軽さであり、枠という拘束から解き放たれた絵画が複数の空間を自在に往来するような感覚をもたらす遊離性、遍在性である。そのとき絵画は、枠の限定性に抵抗する遍在する雲となって複数の空間を去来する。

 

ギャラリーアートサイト|中川 トラヲ《The heat death of the universe》
ジェッソ、顔料、メディウム、パネル|63.5×39.5cm|2021

 

 同様に、絵画を構成する要素を分解し、その抽象的な単位を扱うという点で、木枠のみのインスタレーションを制作した馬場晋作の作品は、中川と問題を共有するものであると言えるだろう。馬場の新作は、東京国立近代美術館の初期収蔵品のリストに記載された一連の絵画のサイズを二分の一のサイズに縮小、それを木枠としてつくりなおし、かつ、リストの順に並べたものだという。中川の作品が縁(枠)を失ったのとは逆に、馬場の新作では、むしろ内側を空洞化した絵画の枠、縁のみが残存する。それは、絵画の亡霊、いわば形骸である。ゆえに、縁以外が虚の空間となった木枠は、物理的に、そこに侵入する外界のあらゆる要素をそのうちに取り込み、貫通させる。つまり、ここでの馬場の企図は、フレームという通常、「分ける」機能をもつものを通して、むしろさまざまなものを貫通させ「混ぜる」ことにあっただろう。それは、フレームを定義すると同時に、その解体を図るものである。また、馬場の木枠は、展示室内において、中川の作品群にも干渉して展示されることで、複数の作者の領域をも不分明にする。

 

ギャラリーウインドウ|馬場 晋作《棚とフレーム|隙間と転換》
木、紙、フィルム、インクジェットプリント、東京国立近代美術館所蔵作品リストの一部|サイズ可変|2021

 

ギャラリーアートサイト|会場風景

 

 ゆえに、この展覧会では、絵画において、通常それを他から隔絶すると考えられている縁、フレームは、むしろそこからそのほかのものが絶えず侵入し、その固有の領域を干渉する特殊な地帯として機能することになる。そこには、異なる空間と空間、作品と作品を飛び越え、自己と他者の境界をも浸食するフリンジの権能が認められるだろう。そのフリンジにおいてこそ、絵画に潜在する時間もまた、絶えず発生する。そのような姿勢は、絵画というメディウムを駆動させる内的衝動の擁護へとつながっている。そのことによって絵画は、一枚のものでありながら、自らのその唯一性と特権性を批判するように、その場を拘束する数々の限定と制約を飛び越え、別の時間、別の空間への憑依と転移を繰り返し続けるのである。

 

 

※原稿執筆時にアメリカに滞在していた筆者は、この展覧会を実際に見ていないことを申し添えておく。そのこと自体に道義的問題が生じるのではないかという疑念はあったが、この遠隔性も新たな時代の批評の様態かもしれないと思い、諸々の情報を手がかりとして執筆に至った。原稿執筆とトークイベントの参加にあたってご協力していただいた出品作家ならびに関係者の方々にお礼申し上げる。

 

沢山 遼(美術批評)

(2021.9.1)

 
会場撮影|守屋 友樹
 
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