2018 秋の芸術月間 セイアンアーツアテンション 11
playing BODY player展レビュー
「身体」を切り口に、成安造形大学卒業生から構成される本展では、絵画/パフォーマンス、テキスタイル、メディアアート、ダンスというように、多様な広がりを見ることができる。会期中には、菊池和晃、瀧弘子、桑野聖子によるパフォーマンスが複数回行なわれる点も本展の特徴だ。
菊池和晃は、ホワイトキューブに展示される「絵画」を、作者の身体から切り離されたものと見なすのではなく、自身の身体に負荷をかけるトレーニング的な行為の生産物として提示する。会場中央には自作の筋トレ/描画マシーンが設置され、菊池がスクワットを繰り返すと装置がシーソーのように上下し、反対側の先端に取り付けられたハケがキャンバスに垂直の線を何度もなぞっていく。壁一面にグリッド状に並べられた計102枚の「絵画」は、汗を滴らせ、きついスクワット運動に従事した菊池の、輝かしいトレーニング成果なのである。一方でそれらは、モノクロームの単色の禁欲的な線の反復という点で、例えば李禹煥のミニマルな絵画作品を想起させる。同様に、過去作品《アクション》では、ボクシングのグローブの付いたマシーンが両側からパンチを繰り出す中、菊池はパンチを避けながら/殴られながら、キャンバスに激しく絵具を滴らせ、返り血のように絵具の飛沫を浴びながら、ポロックばりの「アクションペインティング」を制作した。美術史的規範となった絵画を、ナンセンスでもって脱構築すること。それを知的に洗練されたコンセプチュアルな応酬ではなく、自身の肉体を駆使した泥臭いパフォーマンスとして行ない、ナンセンスな反復運動を意味の生産(アート)へと反転させる点に菊池作品の魅力がある。
だがここで、「筋トレ」すなわちマッチョな肉体への願望が組み込まれていることに注意しよう。機械のパンチを避けることで反射神経を鍛える(さらには「打たれ強さ」のメンタルも?)、あるいはスクワットで下半身の筋肉を鍛える。その肉体の鍛錬、身体改造への欲望は、(男性のマッチョな)肉体美を規範としてきた西洋美術と密かに通底する。特権的なマッチョの肉体を手に入れ、規範的な絵画の生産に従事すること。そこには、西洋美術を支える男性中心主義と通底する危うさが、ギリギリでパロディたり得る中に透けて見える(おそらく、菊池が筋トレ=描画行為によって、ボディビルダーのような「本当のマッチョ」の肉体を手に入れてしまえば、もはやパロディではなくなってしまうだろう)。
一方、自身の身体が「女性」であること(それは生物的条件であるとともに、他者(男性)の眼差しによって成形・規定されるものでもある)に向き合って制作するのが、マツムラアヤコと瀧弘子である。マツムラアヤコはこれまで、「織り」という実際に身体に触れ、まとうことのできる素材・技法を用いながら、「第2の皮膚」としての作品を制作してきた。例えば《body suit》と名付けられた一連の作品は、皮膚の肌理や陰影、肉のたるみ、乳房や陰毛までが織目によってリアルかつ繊細に表現され、抜け殻の皮膚あるいは皮膚でできた鎧のようだ。全身あるいは身体のパーツ毎に制作された《body suit》は実際に着用可能であり、「裸の身体を衣服としてまとう」という皮肉の中に、「第2の皮膚」としての衣服の性格、アイデンティティの表面的な可変性、さらにはヌードとして欲望されつつ社会的には抑圧される「女性の身体」の解放という側面も持つ。今回の出品作では、ベストや胴着のような形をした作品に加え、内部が空洞になったチューブ状の形態や、筋肉や神経線維の束を思わせるような抽象的な形態の作品も展示されている。身体表面の皮膚の擬態から、内部構造や組織体へ。それは、経糸(たていと)と緯糸(よこいと)を交差させる「織り」という技法と、筋肉や神経、血管といった線維組織で私たちの身体が形成されていることとの共通性に思い至らせる。さらに、出品作の素材が綿糸と「動物の革」であることを知るとき、衣服の起源としての動物の皮革に加え、人間/動物を区別する装置としての「衣服」が動物の体でできているという転倒、もう一つの皮肉が見てとれる。
また、自身の身体を媒体に絵画やパフォーマンスを制作する瀧弘子は、《写身―うつしみ》と題した魅力的なインスタレーションを作り上げた。観客が洞窟探検のようにライトをあちこちに向けると、鏡に反射した光が壁や床に次々と投げかけられ、幻想的に移ろう空間を作り上げる。光の一つひとつには、瀧が鏡に自身の顔や裸身を映しながら描いたラフなドローイングが浮かび上がる。展覧会初日には、壁に立て掛けられた鏡に裸体を映しながら、輪郭線を鏡に「写す」パフォーマンスが行なわれた。今ここにある身体の確かさを確認するように、ドローイングを何度も描き重ねていく瀧。鏡に映る/写る、分裂した自己像。それらはライトの光を受け、空間に乱反射し、捉えどころなく拡散していく。自己認識の装置としての鏡を効果的に用い、鏡に「映す身」、ドローイングで輪郭線を「写す身」、さらに「現身(うつしみ)」すなわち現実、ありのままの生身の身体といった二重、三重の意味を持たせたタイトルも秀逸だ。豊満な肉体を晒してパフォーマンスを行なう瀧の姿勢には、美術の歴史を通して、あるいはマスメディアや広告で作り上げられる「理想的な女性の身体美」への強烈なアンチがある。またここでは、観客自身の姿も鏡に映し出され、あるいは「ライトをあちこちに向ける」身体運動を通して、観客の身体も作品要素として取り込まれるのだ。
観客の身体をより能動的に取り込んで成立するのが、芸人としてエンターテインメントの分野でも活動するアキラボーイの《バーチャルゲームワールド》だ。この作品では、コンピュータゲーム「スーパーマリオブラザーズ」の世界に入り込んだような体験が楽しめる。観客は「影」となって二次元のゲーム世界に入りこみ、障害物や敵キャラクターを避けながら、ポイントアイテムをゲットしていく。大人も子どもも楽しめる作品だが、「アート」として成立するには、既存のゲームシステムをただなぞるだけではなく、何らかの批評性や外部からの視線が必要ではないか。
最後に、自身の身体そのものを即興的なダンスとして「見せる」のが、桑野聖子である。桑野は、神戸を拠点とするダンスカンパニー、Ensemble Sonneに所属するほか、美術とダンスの実験の場「7×7」を企画し、美術とダンスの間で表現を模索している。《おどりに ちかい[進行形/内/外]》では、小さな鏡や木片などがそっと置かれたギャラリー空間の中で、「観客に見せるためのダンス」というよりは、「ダンス」がどこから立ち上がるのかを粘り強く、静かに、孤独にひたすら探求するような桑野の姿がある(観客が「無人」の時間も、パフォーマンスは続けられている)。即興ではあるが、身体の軸が常にしっかり保たれ、静止画として瞬間を切り取ってもフォルムとして絵になることから、バレエの基礎があること、ただ闇雲に動いているわけではないことが分かる。物語性やシーンの構成を排除し、音響や照明の操作を一切取り払ったフラットな空間だからこそ、ある時は美しいフォルムとして存在し、ある時は空間にラインを描き、空間を活性化させ、時に停滞に留まる桑野の身体、その内的な状態とも向き合うことができるのではないだろうか。
このように本展は、媒体の多様性に加え、作家自身の身体の駆使、観客の身体が動かされること、バーチャル/リアルの軸、見ることと見られること、ジェンダーなど、「身体」から広がる多様なトピックを抽出することができる内容だった。
___________
高嶋慈
美術・舞台芸術批評。京都市立芸術大学芸術資源研究センター研究員。
ウェブマガジンartscapeにてレビューを連載中(http://artscape.jp/index.html)。
企画した展覧会に、「Project ‘Mirrors’ 稲垣智子個展:はざまをひらく」(2013年、京都芸術センター)、「egØ-『主体』を問い直す-」展(2014年、punto、京都)。